うらかたの光へ 宮脇慎太郎 細長い半島が幾重にも連なる愛媛県宇和海沿岸の方言で、海辺の地を指す「うらかた」という言葉がある。道路が整備され、海路より陸路が便利になった現代では使われなくなった古い言葉だ。
ここ数年、ぼくは時間を見つけては「うらかた」へと通い続けてきた。きっかけはいまから6年前に遡る。地元の香川県を中心に開催される国際芸術祭のカメラマンとして瀬戸内の島々や沿岸を渡り歩きながら撮影をしていたとき、国立ハンセン病療養所の置かれている大島で生涯を終えた詩人・塔和子さんと不思議な縁がつながった。そして遺品の蔵書の一部を、彼女の故郷である宇和海沿岸の地、明浜町の資料館へと届ける役目を担うことになったのだ。
香川県の高松市から自動車でそこまで行くには、高速道路を使っても片道3時間半はかかる。出発の日は3月だったこともあって高松はまだ肌寒く、フロントガラス越しの瀬戸内海には、鼠色をした冬空が覆い被さっていた。しかし車を走らせて何本もトンネルを抜け、四国の西へ西へと向かうにつれて風景はみるみる変化した。
愛媛県の松山市からさらに南予地方へ、九州の大分県とのはざまにある宇和海を望む土地に入る。海は澄みわたり、快晴の空には雲ひとつない。海の蒼と空の青のあいだに、耕作された段々畑が天を衝くかのように伸びている。モノトーンだった四国の風景が南国を思わせる極彩色を帯びはじめ、急斜面の畑に咲き乱れる黄色い菜の花が視界に飛び込んできた。
当時のぼくは、徳島県の祖谷を撮影した写真集を出したばかりだった。日本三大秘境と言われる祖谷渓谷は、標高1000メートルを超える山々に囲まれ、冬にはすべてが凍てつく世界。ファインダー越しに辺境の世界とそこに生きる人々に向き合うことで、四国という島の奥深さを理解した気になっていたが、まったく対照的な宇和海沿岸の風景に、まだまだ自分の知らない島の顔があると目を見開かされる思いがした。 少女だった塔さんがハンセン病を発症したために、明浜町から山を越えて遠く離れた瀬戸内の大島に向かったのは1943年のことだった。まだ交通の発達していない当時では、まるで異国に行くように遠く感じられたことだろう。実際に宇和海沿岸で撮影をおこなう中で、戦前のこの地には県内の松山にすら行ったことがないまま亡くなった人もいると聞いた。
塔さんの蔵書で一杯になった車は、海が見えるようになってからもなかなか目的地に辿り着かなかった。南予地方の風景の一番の特徴は、なんといってもリアス式海岸が延々と続く入り組んだ複雑な地形だ。入江と入江のあいだには隠れ里のような集落がいくつも点在し、車で下道を走りながらカーブを曲がるたびに同じ場所にふたたび戻ったような既視感に襲われる。途中、土地の人に行き先までの道のりを尋ねると「ああ、ここから5分ほどや」と言われたのだが、なかなかそれらしき地名に出会わない。
結局、聞いた時間の何倍もかかってようやく到着した明浜は、まさに四国の西の果てにあった。気象条件によっては海の向こうに九州の陸地が見えるそうだ。待ち合わせた資料館の職員に蔵書をつめた段ボール箱を渡したあと、塔さんのお墓参りをさせてもらった。柑橘の木が至るところに植えられた日当たりのよい集落。人ひとり通るのがやっとの細い路地、その先の高台に墓地はあった。振り返ると陽光に輝く宇和海が眼下に見える。墓石には、塔さんの本名がしっかりと刻まれていた。
資料館には、「光るもの」と題された1編の詩が展示されていた。 光るもの 塔和子
子守をしながら歩いた
ふる里の野道に
咲いていたスミレ
たんぽぽ
それらはいま鮮明
誰の中にもあるもやの中で
ときときに光るもの
それはつらかったことさえなつかしいのだ
いままで生きた年月を支えてくれている
夢のようなもの
目をつむると
きらりと光っては消える
美しいもの 『塔和子全詩集』第3巻 編集工房ノア、2006年 より 眩いばかりの光に包まれた宇和海の印象は鮮烈で、瀬戸内に帰ってからも、しばらくのあいだぼくの心を捉えて離さなかった。あれは現実の景色だったのだろうか? 時間が経つほどに強くよみがえる白昼夢のような記憶。日常に戻っても、心の一部をまだそこに残しているような欠落感。はじめて祖谷に行って帰ってきたときにも、似たような体験をした。
学生時代から日本全国はもとより、海外も含めてカメラを抱えてさまざまな土地を旅してきたが、もっと通い続けたい、もっと撮り続けたいと思える土地に出会うことはそう多くない。実際にそれぞれの土地はそこにしかない魅力をもっているが、そのすべてに同時に関わり続けることは不可能だ。からだはひとつしかなく、人生の時間は有限だから。
それでも、瀬戸内の島嶼部や四国の山間部ばかりを訪ねていた自分にとって、宇和海との出会いは決定的なものだった。通わなければならない。この土地を撮り切ることで、四国という文字どおり四つの海に囲まれた島国の、多様な自然と人間の生活の織りなす世界を浮き彫りにできるはずだ、という直感が生まれた。 僻地ゆえに大規模な開発を逃れた南予地方の海山には、現代ではすっかり珍しくなってしまった野性的な自然の風景が広がる。2012年に絶滅種に指定されたが、列島で最後にニホンカワウソが捕獲された記録も残っている。
そしてこの辺境の地には、複雑な歴史も折りたたまれている。時代時代のありとあらゆる人間の意思や欲望が流れ込み、入り組んだ地形に吹き溜まり、結果として宇和海域独自の混淆的な文化圏を作り上げているのだ。
平安時代、日振島を根城に中央政権に反旗を翻した海賊大将・藤原純友。戦国時代、長宗我部氏に領地を追われ離島で信仰の生涯を全うしたキリシタン大名一条兼定。江戸時代、東北の伊達家の文化を引き継いだ宇和島藩独特の風習と「鹿踊り」などの祭りがいまに伝わる。第2次世界大戦時には軍の基地や要塞が築かれ、また戦後は人口密集地を避けて建設された原子力発電所の四国唯一の立地区域となるなど、国政に翻弄された。
祖谷が四国の最深部なら、宇和海はまさに最果て。「天空の集落」と呼ばれ、四国水系の上流にあってすべてが澄み渡る気配の漂う祖谷渓谷に対し、生きとし生けるものの陰の面も陽の面も併せ持つのが宇和海沿岸だ。
場所によっては100メートル近い高低差があり、海岸線から屹立する岸壁から形成されるこの海域に平地はほぼ存在しない。南予地方では昔から人々は生きるために急斜面に石積みの段々畑を築き、入江の海を鯛や真珠の養殖所にし、自然を利用し尽くしてきた。冬には海水を巻き上げる厳しい北西季節風が集落を吹き抜けるため、要塞や城壁のように軒あたりまで石垣を築いて家屋を囲む集落もある。2018年の西日本豪雨でも南予地方を中心に甚大な被害を受けたように、過去に幾たびも自然災害に見舞われてきた。
そして現代。先人たちがこの地で命をつなごうと築いた段々畑の石積みや集落の石垣は大半がその役目を終え、急速な過疎化とともに自然に還りつつある。入江の細道を歩いていると、森に飲み込まれつつある放置された畑の姿を至るところで目にする。2020年からは新型コロナウイルスの世界的な流行により、行事や祭りも軒並み中止となった。しかし不思議と悲愴感を感じることは少なかったように思う。
宇和海で出会う人々はすべてをおおらかに受け入れ、たくましく生きる者が多かった。大いなる循環の中で世界は移りゆき、変わらないものは何ひとつない。代々おこなわれている人々の生業も祭りも永遠のものではありえない。日本では少子高齢化の加速によって、将来消滅する自治体も少なくないと言われている。しかしそれでもこの地でこの海で、人は生き続けると信じたい。 自分にとって撮影とは、人類の長い歴史から見れば、一瞬のさざ波のようなものでしかない儚い光景をせめて写真で記録して残そうという、祈りに似た行為なのかもしれない。「うらかた」という古い言葉とともに宇和海で生きてきた人々の末裔をいまも包む、果ての地で見た光。それだけはきっと永劫不変のものだろう。そんな光を、少女だったころの塔さんも見ていたのだと思う。
この写真集は、撮影地での人々との出会いがなければ完成することはなかった。この場を借りて、あらためてお世話になった皆様に感謝を捧げたい。また、ほぼすべての写真を撮影したカメラのシャッターが、2021年の宇和海のお盆を最後に、ついに壊れてしまった。古いカメラなので修理はもう不可能だ。祖谷での撮影以来ずっと愛機としてきたのだが、その偶然のタイミングに、自分の中でひとつの旅の季節が終わったことを感じずにはいられなかった。
宮脇慎太郎写真集 UWAKAI 2022年4月30日 初版第1刷発行 著者 宮脇慎太郎 発行 サウダージ・ブックス アートディレクション 大池翼 プリンティングディレクター 高松了吾(株式会社 松栄印刷所) 校正 瀬尾裕明 印刷・製本 株式会社 松栄印刷所 仕様 A4判変形/112ページ/上製 定価 本体3800円+税 *2022年4月下旬より、サウダージ・ブックスのオンライン・ショップおよび直接取引店で販売します。
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