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執筆者の写真Saudade Books

Walkabout #11 マインドフルネス瞑想のひととき(浅野佳代)

更新日:2019年10月19日



旅とヴィパッサナー瞑想の実践を通じて学んできたブッダの教え、自然の教えをテーマにしたエッセイです。







残暑の厳しい8月下旬、島田啓介さんの「マインドフルネス瞑想会」に参加した。島田さんは、ベトナム出身の禅僧ティク・ナット・ハンの著作の翻訳者であり、1990年代から日本にハン氏を招へいするために尽力し、「マインドフルネス」という用語が認知されるずっと前から、マインドフルネス瞑想を実践されている方でもある。私自身、ヴィパッサナー瞑想と出会う何年も前から、ティク・ナット・ハンのことばに親しんできた。今も変わらず、時々思い出したように家の本棚から著作を引っ張り出しては、彼の言葉にふと立ち戻ることがある。ブッダの教えに基づいた智慧と、「仏教」という枠組みに縛られない、いのちへのまなざしがページの随所に溢れていて、読み返すたびに大きな励みを得るのだった。


「マインドフルネス」という言葉は、今や書店に行けば棚で見かけない日はないほど、(その本来の意味はさておき)広く知られている。私は時折マインドフルネスに関する本を手に取るなかで、ひとりの読者として、島田さんとご縁がつながった。これまで「マインドフルネス」と名前のつく瞑想会には参加したことがなかったが、これを機に一度体験してみたくなった。やわらかくつながっているご縁を、いま大事にしたいと思った。



「初心」というのは素晴らしい


はじめて参加する瞑想会というのは、いつだって敷居が高いように感じられて足がすくむ。もし誰かが「瞑想」というものに興味を持っていたとしても、実際に「瞑想会」に参加するには、勇気がいることだろう。それは初心者であっても、経験者であっても、やはり同じなのだ。緊張だったり、不安だったり、恐れだったり、期待だったり、そういったものがないまぜになった「初心」というものを、あらためて実感することとなった。


月に1回開催される島田さんの瞑想会には、さまざまな場所から参加者が訪れていた。「近場だから行ってみよう」というよりも、たとえ遠くて時間がかかっても「行きたい」と思って参加している人たちが多く、マインドフルネスや瞑想への関心の高さが伺えた。


会場でひとり緊張していると、瞑想会の始まりに島田さんが、「「初心」というのは素晴らしい、それは子どもの頃のように世界を驚きの目でみつめるということなのですよ」と話してくれて少しホッとした。


それからみんなで立ち上がって、ひとりひとり自己紹介をしながら、身体を動かした。例えば、その人が腕を回したいと思ったら、自己紹介した後に、腕を回す。すると、他の人たちも同じ動作を真似るという具合。ジャンプしたり、くるりと回ったり、足を挙げたり、「頭で考えずに身体のおもむくままにただそうする」ということを、順に行っていった。すると不思議なことに、全員終わるころには、会場の空気が変わっているのだった。誰かの動きを真似ていると、それはまるで自分が望んだ動きのように感じられ、私の動作が、他の人の望む動作となった。瞑想会の会場で、それまで別々だったはずの個々の身体が、わたしの身体でもありながら、またあなたの身体でもあるかのような、ゆるやかなつながりのなかに浸っていた。



いま疲れているなら、疲れているのだと気づく


ついで、床に寝転んで身体をゆっくりと部分ごとに観察していくリラクゼーションの瞑想も行った。サポート役をつとめるひとりの女性が、子守唄のような歌とともに、ゆっくりと顔や手や足などへ意識を向けていくことを誘導していく。深い呼吸とともにしだいに緊張がほぐれ、眠ってしまいそうになる。


ヴィパッサナー瞑想でも、身体の感覚を観察していくプロセスは同じ。けれども、島田さんが実践しているマインドフルネスでは、できるだけリラックスした状態から瞑想に入っていくことを大切にしているようだった。ヴィパッサナー瞑想では、1時間の瞑想中は身体を動かさないことと、眠らずに観察し続けていくことが推奨されるため、初心者はとくに緊張をともないがちになる。島田さんは、現代人はあまりにも忙しいから、身体をわざとリラックスさせることが必要だとおっしゃっていた。それはまた、ハン氏がマインドフルネス瞑想において大切にしていることでもあるという。


実際に私自身も寝ころんで身体をゆっくり部分ごとに観察していくことによって、「疲れていることにすら気づいていない」ことに気がつく。頭が「まだまだ大丈夫」と言っても、身体は悲鳴をあげている。そのことにすら気づかずにそのまま頑張り続けてしまうと、どうなるだろう。体が疲れている、心が忙しい、慌ただしい。そしてそのことにすら気づいていない。それがあたりまえだから、みんなやっているから、そのうち慣れるから、と。それはぜんぶ「頭の声」であって、「身体の声」ではないのだ。


島田さんの著書『奇跡をひらくマインドフルネスの旅』(サンガ)にも書かれているように、躁うつ病を患い壮絶な苦しみを経験した島田さんだからこそ、リラクゼーションを用いたマインドフルネスの必要性を実感し、何よりも大切にしているのかもしれないと思った。いまここにある身体の重さ、だるさ、疲れ、焦り、不安、心配といった不快な感覚があったとしても、それをなんとかしようとする前に、そのまま感じてあげることが「癒し」になるのだと、島田さんは私たちに伝えてくれている。


いま疲れているなら、疲れているのだと気づく。それは、私が私自身に慈しみのまなざしを向けること、微笑むこと。そのこと自体が何よりのケアになる。誰かにそうしてもらう前に、そうやって自分自身で癒していくことができるというのは、私たちが外側の環境や他者、内側の思考や感覚の犠牲にならなくてもいいということでもある。


これまで私は、わざわざ大変な道を選んだり、挑戦したり、自分を追い込んだりすることがあった。けれども心の中では安らぎを求めている。ただ平和を望んでいるだけなのに、なぜ苦しみを背負うのだろう。今回マインドフルネス瞑想会に参加して、なんとなくその訳がわかった。


人生の中で言葉にできないほど大変な思いを抱える瞬間は何度もやってくる。生きること自体が大変なことで、そもそも苦しいことなのだ。だとすれば、この大変さとともに生きていくしかない。


大変だと感じることからもうこれ以上逃げなくていいし、恐れなくていい。大変なら、「大変だ」と感じ、苦しいなら、「苦しい」と感じていい。


リラックした状態でゆっくりと身体の感覚を深く観察していくうちに気づいたことは、生きることに心地よさや理想を求める前に、「大変さ」を受け入れなさいということ。今までの私は「大変さ」と向き合うのを恐れて、逃げ回り、全力で抵抗していたけれども、もはや観念するしかない。苦しみがあるなら、あると知る。大変ならば、大変だと感じていることを知る。無理をして不和を平和へと変換しなくていいのだ。不和を不和と知り、その感覚を感じる。それだけでよかったのだ。


マインドフルネス瞑想を体験する中で私は、大きな諦めとともに、「大変さ」を生まれて初めて、迎え入れることができた気がした。





つながりあうなかで、ひとりひとりが目覚めていく


そのままでよいという気づきは、私たちの心と身体を解放する。ただし、気づきとともに、いま苦しい、楽しい、嬉しい、悲しいと感じていることをそのまま何も手を加えずに、心地良い方へと変化させようとしないで、しばらくのあいだ気づいていることが大切だ。すると気づきそのものが灯火となり、私が意図的にそうしようとしなくても、やがて感覚はひとりでに変化していくだろう。


瞬間、瞬間の変化していく感覚にただ気づいているとき、私たちは自由だ。どうしようもないことを、どうしようもないとして受け入れ、そして、いまここでできるだけのケアをする。それが私たちに与えられている知恵のひとつ。抵抗の終焉は、解放への初めの一歩なのだった。


そんなふうに、島田さんと瞑想会に集った人たちとともに、いまここにある感覚に気づいていることを一緒に練習した。するとぼんやりとした暗闇を照らす光のように、私がいまここで感じていることと、他の誰かが感じていることにも、「わたし」や「あなた」の違いがないことがだんだんと見えてくる。ばらばらだったはずの点と点のあいだに、やわらかなつながりが見えてくる。


けれども、気づきをもって身体と心を注意深く観察することは「他の人」ではなくて、「自分自身」でなくてはならない。誰かがそれを代わりにしてくれるわけではない。それがひとりひとりに与えられた、唯一の務め。すべてがつながりあうなかで、ひとりひとりが目覚めていくということ。


瞑想会が終わると、一足早く会場を出て家路へと向かった。夏の午後の日差しは相も変わらず、じりじりと焼け付くように強かったが、暑さの真っ只中にあって心の内は澄み渡り、さわやかな秋空のようにどこまでも広がっていた。



プロフィール

浅野佳代(あさの・かよ) 瞑想と文筆。サウダージ・ブックス代表。





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