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執筆者の写真Saudade Books

ローカル・トライブ 前編(宮脇慎太郎)

更新日:2019年10月19日



新泉社より近刊予定の著者のノンフィクション『ローカル・トライブ』に収録予定の序章を、2回にわけて紹介します。



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「凄い!」。カメラのファインダーを覗くのも忘れて空を見上げ、無意識にそう叫んでいた。太陽の光が完全に影に隠れると、覆いかぶさるような闇が一気に世界を包みこむ。いつのまにか風もやんで海は凪ぎ、はるかな水平線だけがかろうじて赤く浮かびあがっている。隠されていた宇宙が突然この世に出現したような、圧倒的な非日常の光景が目の前に広がっていた。






2009年7月22日、僕は奄美大島にいた。インドのバラナシや中国・上海を通過してやってくる、今世紀最長の皆既日蝕を見るためだ。日本でこの特別な自然現象が観測できるのは、1963年の北海道以来。そしてこれを逃すと、次は2035年の北陸まで待たなければならない。


それまで僕は、写真の仕事をしながら気の向くまま国内外の放浪の旅をつづけてきたのだが、ちょうどこのころ、子どもが生まれたことをきっかけに東京から故郷の四国へUターンした。結婚やはじめての子育てなど、自分の生活が大きく変わりつつあり、しばらくはまとまった時間をとって旅することができそうになかった。ならば、と妻を説得し、行けていなかった新婚旅行も兼ねてこの島にやってきたのだった。


奄美大島は、本州の鹿児島から南下して種子島、屋久島を越え、トカラ列島を通り過ぎたさらに南にある辺境の島だ。しかし日本の離島としては、面積が沖縄や佐渡島に次ぐ大きさを持ち、人口は約6万と多い。中心地の名瀬は、近代的なビルも立ち並び、立派なアーケード街も存在する都市。南北に細長い島は全域が亜熱帯で、市街地以外には、マングローブの原生林や見事な珊瑚礁のリーフなど、手つかずの自然が残っている。


普段は静かな島に、この期を逃すまいと日本、そして世界中から旅人が押し寄せ、港は人であふれかえり熱気が充満していた。鹿児島から出るフェリーのチケットは予約がなかなか取れず、僕たちは1週間ほど前から島に乗り込むことになった。


名瀬の商店街には屋台が立ち並び、地元の人びとと国内外の観光客が入り乱れ、連日がお祭りのような騒ぎだった。スーパーで売っている海ぶどうのパッケージにまで、日蝕の写真が印刷されて売られている始末。みなが世紀の自然現象に沸き立っている。しかし一時の喧噪に包まれた市街地を飛び出して島の土地を巡れば、集落の中に佇む慎ましやかなキリスト教会の風景や、あちこちから耳に入る哀愁を帯びた島唄がしずかな旅情を掻き立てるのだった。


「とうとぅがなし(尊尊我無)」という挨拶の言葉に代表されるような、島言葉の独特の文化。必要に迫られたための早めの奄美入りだったが、島内を車で散策する時間がたっぷりあったのは結果的に幸運で、僕らは辺境であるがゆえに残された離島の美しい風土に身も心も浸りきっていた。






日蝕当日。昨日まで晴れわたり、うだるような暑さが続いていた島の空は、朝から徐々に曇り始めていた。気はあせるが仕方ない。これも運命、と腹をくくってその時を待つことに。

皆既日蝕帯は、島の北部を通る。日蝕に合わせて開催された野外音楽祭の会場では、その場にいる全員が晴天を祈るように一心不乱にダンスし、最高潮の盛り上がりをみせていた。会場には外国人が多い。かれらはこの特別な日に照準を定め、世界中から集まって来たバックパックのレイヴトラベラーにヒッピー、スピリチュアリストやエクリプス(日蝕)ハンターなど、有象無象の求道者たちだ。


やがてすべての音が鳴り止み、蝕の時間の近づいて来たことを告げる。静寂のなか、人びとは不安そうな顔で天を凝視している。しかし僕らの祈りも空しく、薄曇りの空はいっこうに晴れそうにない。かろうじて太陽は見えていて、観測用のサングラスをかけずとも、輪郭が欠けてゆくのは見えた。


「本当に始まったんだ」。素直にそう思った。1分1秒の誤差もなく、気象台の発表する予報通りの時刻から、太陽はどんどん欠け始める。蝕の時間には、地球の唯一の光源である太陽の形の変化に伴って影が不自然なうごきを見せるので、目に映る世界の輪郭がゆらめくような不思議な感覚におちいる。アメリカ大陸などの先住民たちは日蝕や虹を不吉なもの、魔的なものと見なすそうだが、それも分かる気がした。


極限まで細くなった光の弧が消えると、肌寒く感じられるまでガクっと気温が下がった。たとえ曇っていても、実際に体験するその感覚は衝撃だった。


と、まわりから歓声や雄叫びがいっせいに起こる。瞑想する人、抱き合う人、何かを空から受け取るように両手をあげる人……。数千人の人間がみな空の一点を見つめ、会場が強烈な一体感で包まれる。視線を下げると狭いビーチに押し寄せた人びとが次から次へとカメラのフラッシュを焚くので、光が細い筋になって遠くまでイルミネーションのように瞬いていた。これは果たして本当に起こっていることなのだろうか。目の前に生起する出来事に、まったく現実感を抱くことができない。そのとき、誰かが力強く法螺貝を吹いた。ふたたび沸きあがる歓声……。







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自分のなかにある一番古い旅の記憶は、お盆と正月の移動だ。


僕は瀬戸内海に面した香川県の高松で生まれ育ったのだが、父の実家が東京だったため、毎年のように車で一家そろって帰省した。家族の荷物を詰めこむと、父の運転で出発するのはいつも夜中だった。点滅信号の交差点をいくつか越えて、長距離トラックとともに高松港から神戸行きのフェリーに車を乗せる。そして本州に降り立つと、解き放たれたようにオレンジの街灯が延々とつづく高速道路を東へ突きすすむ。後方に、光の筋となって飛び去ってゆく街灯を寝ぼけまなこで追いながら、カタンカタンと音が鳴るアスファルトの継ぎ目の振動を感じつつ、子どもだった僕は眠りについた。


ふと車内が静かになり目を覚ますと、そこは真夜中のサービスエリア。肌を刺す冷たい空気と排気ガスやガソリンの匂いは今でもはっきりと覚えている。嗅覚は記憶と密接な関係があるのだろうか。


車が走り出すとまたすぐ眠りにつき、次に起きると、いつも都心の大渋滞の中だった。朝日に光るビル群と、そのあいだを縫うように走る首都高速。眼下では膨大な数のサラリーマンたちが、せわしく通勤する姿が見える。幼心に地方と東京の圧倒的な環境の差を感じ、世界に同時に存在する異なる時間の流れに思いを馳せた。



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大学は大阪芸術大学の写真学科へ。写真の道を選んだのは偶然だった。中学・高校とずっと美術部だったので、絵の道に進もうと思って美大を受験し続けたのだが、狭き門に阻まれてことごとく落ちた。


それでもとにかく早く地元から出たいという気持ちが押さえきれず、父が映像関係の仕事をしていたこともあって偶然見つけたのが、写真という道だった。幼い頃の旅の経験から、この世界が多様であることを漠然と感じていたので、その現実(リアル)をできるかぎり自分の目で直接見て把握したかった。


まったく未知の分野だったけど、カメラという機械さえあれば表現することができる写真という手段には、絵よりもダイレクトに世界と繋がれるような、魅力的な予感を感じていた。写真の仕事がそんなに甘いものではないということは、後からとことん思い知らされることになるのだが……。


大学時代はユースホステルクラブに所属し、数々の個性的な旅の先輩と出会うことになった。まだゲストハウスなどほとんど存在しない時代。とにかく安く旅しようと思えば、ユースを利用するのが一番手っ取り早かったのだ。

サークルの先輩から、「海外に行く前にまず日本をよく見とけ。日本は変化が早い。あと数年で見られなくなるものが山ほどあるぞ」と言われ、とりあえず国内を重点的に巡ることにした。


大学4年間、必要最小限の講義の単位は取りながら、ほとんどサークル棟と旅に入り浸る生活だった気がする。人生初の一人暮らしの自由も手伝って、北は北海道知床から南は沖縄の久高島など「聖地」と呼ばれる場所、また軍艦島をはじめとする廃墟や離島を中心に、好奇心の赴くまま日本全国を放浪した。


青春18切符で鉄道を乗り継ぎ、地方の無人駅からバックパックを背負い、朝霧を踏みしめて歩きだす時の爽快感。高速道路のインター付近で何時間もヒッチハイクを試み、やっと車が止まってくれたときの言葉にならない嬉しさ。


実際先輩の言葉通り、その後日本の各地では急速に開発やジェントリフィケーションが進んだ。僕が旅をはじめた1999年頃から急速にインターネットも普及し、世の中は情報化社会へと一気に舵を切りはじめた。それまでグレーゾーンとして残されていた地方の廃墟や秘宝館などの怪しげなスポットは次々と姿を消し、伝統的な聖地は世界遺産などに指定されると観光客でごった返すようになった。


はじめて海外へ行ったのもこの頃だ。LCC(格安航空会社)はまだない時代、どうやったらお金をかけずに海外へ行けるのか調べると、神戸から出ている船で上海に渡ることができると分かった。新鑑真号というその船には、その後も何度かお世話になった。


船に乗っているのは、ほとんどバックパッカーか中国人の旅人。「中国からユーラシア大陸を横断してアフリカまで行く予定だ」と話す人や、中国人と日本人のあいだに生まれ、里帰りする青年。先の大戦時に上海に住んでおり、「第二の故郷みたいなものです」と言って毎年、中国に通う老人。僕がそれまでの人生で出会ってきたような「普通」の人はいなかった。夜は船内にあるスナックでカラオケ大会が開かれ、朝は甲板で太極拳がはじまる。上海までは2泊3日かかるため、2日目にはみなとすっかり打ち解けていた。道中の日本語、中国語、英語混じりの会話は国籍や人種が溶けてなくなるような感覚を抱かせ、そこには、自分が生命体としてどこまでも浮遊してゆくような魅力があった。


船内の手摺が干された洗濯物で埋めつくされる頃、誰かが「見えた!」と叫ぶ。急いで窓の外を見ると、どこまでも真っ平らで、埃をかぶったようなくすんだ色の大地が水平線に確認できた。日本を離れる時、船から最後に見た下関の風景は、家屋の密集した緑したたる半島だった。そんな箱庭のような列島の景色とは完全に正反対の、圧倒的に広大な「未知の世界」がそこにはあった。


今は世界中どこにいてもスマートフォンがあればインターネットに繋がる環境にあり、日本の情報とも切り離されることはほとんどない。しかし当時は国際電話の料金もかなり高額で、一度国外に出ると基本的には音信不通になるのがあたりまえだった。あのころの海外旅行で感じた追放されたような孤独、それと表裏一体の底抜けの自由の感覚を忘れることはいまもない。一方、日本国内の旅では、シャッター街と化した疲弊する地方都市も多数目にし、そこに暮らす人びとが「昔はよかった」という声を何度も聞いた。経済成長に陰りを見せつつあったこの列島は、確実に軋みはじめていた。



(つづく)





プロフィール


宮脇慎太郎(みやわき・しんたろう) 写真家。1981年、香川県高松市在住。著書に、日本三大秘境と言われる四国最深部の天空の集落・祖谷渓谷の四季を記録した写真集『曙光——The light of Iya valley』(サウダージ・ブックス)。瀬戸内国際芸術祭2016公式カメラマン。2019年以降、初のノンフィクション『ローカル・トライブ』、写真集『リアス・ランド』を刊行予定。


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