「食」にかかわるさまざまな仕事をする人に、「食べること」をテーマに詩やエッセイを寄せてもらいます。
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たべものの循環
おなかへってない?
いっしょにごはんをたべる?
セツローさん(*1)とたべる?
かぞくといっしょにたべる?
弟子たちといっしょにたべる?
友だちもいっしょにたべる?
はじめてやってきたひともたべる?
わが家ではごはんをいっしょにたべる?
みんなでつくって、みんなでたべるのがだいじ
みんなのからだのなかに、おなじたべものがはいって
みんなのからだが、ごはんでつながりあうのがだいじ
生きるためにたべる
生きのこるためにたべる
未来のいのちのためにたべる
生命力のあるものをたべる
むつかしいはなしは、おいといて、うまい、うまいとたべたセツローさん
たべもので、ずんずんからだがよくなって
さいごのいちにち、いちにちをたべて長生きした
いまはもういないセツローさん
いつかあの柿の木の根にセツローさんの灰をまこう
テッペイ(*2)の好きな柿になって、わたしのからだのなかに
きっと、もどってくる
(*1)セツローさんは夫であるテッペイの父。さいごの看取りをしました。
(*2) テッペイは夫で陶芸家。
生きものとしてのわたしを生きるために
縄文時代もたべていた栗や里芋をたべる
木のぼりしてもぎたてを汁をしたたらせながらたべる
畑で種まきしたものをとってきてすぐたべる
種のまわりをむしゃむしゃたべる
生きものとしてたべる
生きものとして、探してたべる
生きものとして、手でつかんでたべる
手でたべるとおいしい
手でくるくるまきながらたべる
手をスプーンみたいに丸めてたべる
手をつかってたべるのは、たのしい
ごはんの手しごとも生きるためのしごと
なんでも手でつくるとおいしくなる
ぬか漬けだって、梅干しだって、
みそだって、らっきょうだって
海苔の佃煮だって、キムチだって
むかしのひとのように手でつくる
買ってくるのはカンタン
いまの家庭は消費するばしょ
家庭を生産のばしょにとりもどそう
ごはんをつくることが、生きものとしてのしごと
付記
タイの東北地方イサーンを旅したときに、スリンの村をたずねました。村のなかを歩いていると、日本(イープン)からきたのかと家のなかに招きいれてくれました。「ヒュー マイ? ギンカーオ」。おなかすいていない? ごはんたべる? ちょうど、みんなのお昼ごはんが用意されて、いい香りがただよっています。いっしょにたべないかと、みずしらずのわたしをごはんにさそってくれました。
村びとのおひるごはんは辛い大根のスープと蒸したもち米。決してゆたかではないごはんだから、申し訳なくなりました。けれどもわたしの手のひらに、どーんとかごから手渡されたもち米。蒸したてで湯気がでています。もち米をもんで、餅のようにして、辛いナムプリックをつけてたべるとおいしい。みなは、ひとつのおおきなお椀のスープをめいめいのレンゲですくってたべました。
「ペッ マイ?」。辛いときかれて、辛いというと、みんながげらげら笑い、そうしてたべたごはんが、いまのわたしのからだや気もちをつくってくれたのでした。
このときのことが、わたしがごはんを想うときの、ごはんをつくるときの素になっています。ゆたかではないけれど、村びとのくらしのなかで、みんなでわけてたべるごはんは、格別の味でした。こころもからだも、アジアの村とひとつになれたような、ふしぎな体験でした。ひととしての、ほんとうのゆたかさとはなにかを学んだ、わすれられない村びとのごはんでした。
いまでは気づくと、うちをたずねてくる旅びとにおなかへっていない? ごはんたべる? とおなじことばをかけています。
タイの東北地方イサーンでは、おなかへっていない? があいさつなんだそうです。貧しい土地の村びとたちの相互扶助、わかちあう思想のような、ひとを想うことばかけに、こころうたれました。
ごはんのきほんは、みなでたべものをわかちあい、みなでおなじものをたべることなのです。
土はあたたかい循環
いのちをめぐる循環
たべものとからだの循環
いつかわたしも土に還る
種のように
プロフィール
早川ユミ(はやかわ・ゆみ) 布作家。1957年生まれ、高知県在住。著書に『種まきノート』『野生のおくりもの』(以上、アノニマスタジオ)、『からだのーと』(自然食通信社)など。詩人・山尾三省の『火を焚きなさい』『新版 野の道』(以上、野草社)の解説を執筆している。
ウェブサイト http://www.une-une.com/
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