2年間のカナダ滞在経験から「外国で暮らすこと」や「外国人になること」を考える詩とエッセイの連載です。
.
外へ出よう
外へ出よう
陽の光を浴びに
はためく洗濯物
赤ん坊の声
ゴミ捨て場の匂い
全部ある
暑くなれば
川辺へ行って
せせらぎを聞こう
汗をかけば
水を飲んで
風に吹かれよう
外へ出よう
いついかなる時も
知らない人
会いたい人
会いたくない人
みんないる
雨に降られても
傘をさして
駆け出そう
犬に吠えられても
名前を呼んで
撫でてやろう
隣の街へ
向こう側へ
山を越えて
もっと遠くへ
その先に待つのは
どこまでも輝く広い海
.
引きずり出され外へ出るようになって1ヶ月あまり。社会は「ウィズ・コロナ」の呼び声のもと、注意喚起を呼びかけ平常運転を装って人を外へ外へと駆り立てる。外へ出ても安全だという証拠を突きつけられれば、何も持たないわたしたちはそれに従わざるを得ず、それ以上恐怖を述べたてたり警戒することは「〜警察」というレッテルを貼られ、エビデンスを解さない無知蒙昧な行為と切り捨てられる。
できることならうちにいたいと思っていても、仕事が、金が、学校が、社会がそれを許さない。外へ出ることが当たり前になりそれが習慣化すれば、表面上は恐怖を乗り越えたかのように振る舞える。しかしそれは、「いつまで怖がっているんだ」という声を恐れているだけで、本当に怖がっていないわけではない。
この慌ただしく落ち着かない1ヶ月あまりを振り返ると、緊急事態宣言下の、閉塞感と不安の一方で安らぎや平穏に懐かしさを覚える。それは人付き合いの煩わしさから逃れられたことや、自分のペースで過ごせることの安堵感だったのではないか。今ではそれはある種の「社会」からの逃避だったのだろうと思う。
そうして考えると、わたしが悩まされていた人間不信は、ウイルスそのものではなく自分ではない他者への恐怖によるものだったことに気づいた。外の世界は傷つきに満ちていることに気づいてしまったから、外に出るのが怖くなったのだ。外に出ることは自分の外部と接することで、そこには必ず他者がいて、その中に自分を傷つけるものが必ずいる。かりそめでも穴の中で極力自分の狭い世界に閉じこもっていられた快適さを味わえばなお、またわざわざ外に出て傷つくことが怖くなったのだ。
そうやって自分の中に閉じこもっていたわたしを外に連れ出してくれたのは、淡路島に住むどいちなつさんからの手紙だった。どいさんは料理家で、加藤賢一さんと一緒に自分の手でハーブを育て、「心に風」という名前でエッセンシャルオイルやハーブソルトを作っている。手紙の中に、『植物と叡智の守り人』(ロビン・ウォール・キマラー著、三木直子訳、築地書館)という本の一部のコピーが入っていた。
そこに書かれていたアメリカの先住民のホーデノショーニーの人たちが唱える「感謝のことば」についての文章に目が止まった。アメリカでは子どもたちは学校で「忠誠の誓い」を唱える。アメリカという国家に忠誠を尽くすことを子どもの頃からそうやって叩き込む。だが、先住民のホーデノショーニーの人々は「すべてのものに先立つ言葉」を唱える。これは、地球や、水や、魚や、植物や動物、ありとあらゆる自然に感謝する。一つの節の終わりは「いま、私たちの心はひとつです」という句で結ばれ、そこに居合わせた人全員で唱和する。その言葉の意味することはこのようなものだ。
「人間であろうがなかろうが、すべての『人』は、自分以外のあらゆる『人』と相互依存関係によって結ばれている。すべての生き物が私に対するある義務を負っているのと同じように、私にも彼らに対する義務がある。私に食べさせるために動物が自分の生命を差し出すならば、お返しに私は彼らの生命を支えなければいけない。川が私に清らかな水という贈り物をくれるなら、私も同様に贈り物を返さなくてはいけないのだ。そうした義務はどういうもので、どうすればそれを果たせるかを学ぶことが、人間の教育には不可欠である」(152頁)
これを読むうちに、世界は私を傷つけるものではなく私にたくさんのものを与えてくれる場所でもあったことを思い出した。そして、外へ出てみようと思えたのだ。
.
今の地球上には足の踏み場がないくらいに人間があふれている。人の活動の痕跡が気候変動や環境破壊に大きな影響を与えているという意味で、産業革命後の地質時代を表す言葉として、「人新世」を使おうというくらい、人間は我が物顔で地球をのし歩き、自然の障壁はなくなったかのように地球上を移動して回ってきた。しかし動物由来のウイルスにより、この栄華は陰りを迎える。これまでの傲り高ぶりにツケが回ってきたかのようだ。
パンデミックの原因は人が引き起こしたものだとも言われている。人がこれまで活動しなかった場所にまで移動するようになり野生動物との接触が増えた結果であるとも、人の往来が地球規模で速く激しくなった結果だとも、都市に何百万人何千万人単位で住み、ウイルスが爆発的に広がりやすい環境で生活しているせいだという説もある。さらに、これからも新種のウイルスの出現は危惧されている。畜産業では動物に抗生物質を与えるため、これまでのワクチンが効かないウイルスが生まれるとも予測されている。まるで人が、ウイルスが生まれ、広がり、棲息しやすい環境を整えているかのようだ。
動物由来の培養細胞を使った人工肉についてのノンフィクション『クリーンミート』に、ある面白い記述があった。現在の畜産業は環境負荷が高く、動物の福祉の面から言っても畜産業は持続可能な産業ではない。それを解決するのが動物の細胞を培養して作った人工肉だと、開発しているさまざまなベンチャー企業を取材したものだ。その中で著者は、人工肉ができれば畜産業による環境汚染と新たなウイルスの脅威がなくなるのではないかと薔薇色の未来を描く。本では培養細胞の人工肉の安全性や環境負荷がかからないというメリットが繰り返し説かれ、これこそが解決策だと主張するのだが、しかし、本当にそんな単純な話なのだろうか。
文化人類学者の奥野克巳の「『人間以上』の世界の病原体」(『現代思想』2020年5月号[緊急特集=感染/パンデミック])という文章では、香港やインド、世界のさまざまな少数民族の動物と人の関係を描きながら、一概にウイルスを悪者とみなし、排除するのではなく、人と動物との関係の中にウイルスもいて、それらは互いにつながり合っていると主張する。
クリーンミートを商品化するにあたって、いちばんのハードルは消費者に受け入れられるかどうかで、著者はなんども人工肉は環境負荷がかからず動物の福祉にとってもよく、安全で健康的だとメリットを主張する。しかし、奥野の文章を読んだ後では、人と動物との関係は「食べる/食べられる」だけのものでも、人が一方的に搾取するわけでも、ペットとして一方的にかわいがるわけでもないことがわかる。使役し、食べ、酷使する一方で、感謝し、信仰の対象ともしている。人にとって動物は家族であり、食糧であり、神であり、悪魔でもあるのだ。
ウイルスが猛威を奮っている間に人の活動が停滞したことによって環境汚染が減ったように、ウイルスが一方的に悪とは言えない。むしろ人に苦境をもたらしているのは同じ種であるはずの人で、それは政治がもたらしたものである。わたしたちが移動と開発をやめ、散り散りに住めばウイルスの脅威から逃れられるわけではない。
そして当たり前だが、動物と人が、ウイルスと人が、ウイルスと動物が、複雑な絡まりかたをしているように、人と人とも複雑な絡まり方をしている。好きな人とだけ付き合うことも、嫌いな人を嫌いと言って斥けることもできないし、煩わしさを感じても同じ組織のメンバーであればうまくやっていかねばならない。動物が人に危害をもたらすように、また、ウイルスが人に脅威をもたらすように、人と付き合うことで人に傷つけられることもある。だけど、動物が人に恩恵をもたらしてくれるように、ウイルスが人類の進化の過程に大きな役割を果たしたように、人といることは喜びももたらしてくれる。
この世界に生きている限り、人を傷つけ、人に傷つけられる。たとえ血のつながった肉親でも、愛情でつながったはずの家族でも、どんなに心の通いあった友人でも例外はない。他者への信頼と不信、期待と恐れがないまぜとなった世界を受け入れ、その中で生きていくしかない。どいさんが送ってくれた言葉にあったように、わたしには自分の生きている世界を支える責任があるのだ。自分だけがその枠を超越して生きるなんていうことはできない。
以前、知性の中に精神の自由があると書いたけど、もしそうなら、他者との出会いとの中には世界と人生があるはずだ。だから、ドアを開けて外へ出よう。
プロフィール
太田明日香(おおた・あすか) 編集者、ライター。1982年、兵庫県淡路島出身。著書『愛と家事』(創元社)。連載に『仕事文脈』「35歳からのハローワーク」。現在、創元社より企画・編集した「国際化の時代に生きるためのQ&A」シリーズが販売中。
Kommentarer