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執筆者の写真Saudade Books

Hello folks #12 海を越えて #3 敵国人とされて(太田明日香)

更新日:2019年12月23日



2年間のカナダ滞在経験から「外国で暮らすこと」や「外国人になること」を考える詩とエッセイの連載です。



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海を越えて 


わたしたちを分かつもの

それはただの海だった


わたしたちだった人たちを

だれもが思い出していた


海を越えたその先で

同じ言葉と同じ顔

思い出すのは同じ海


わたしたちを分かつもの

金、生活、もう何年も


わたしたちだった人たちを

稼ぎ、暮らす毎日が

知らない人に変えてゆく


あの海はなんども越えた

だけど、同じ海はもう見ない


わたしたちを分かつもの

国、戦争、パスポート


わたしたちだったころを

みな忘れ覚えていない

そこにいたことも


わたしたちのあの海は

鮭を追って

越えた海


わたしたち、だったころ

わたしたちはそこにいた



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コミュニティセンターで日系3世のアリスという女性と知り合ったことをきっかけに、日系人の歴史に興味をもち、日系センターが主催するツアーで戦前の日系コミュニティがあったパウエル・ストリートを訪ねた。だが、1940年代まで隆盛を誇ったパウエル・ストリートは、1941年12月7日の真珠湾攻撃により、状況は一変した。日米間の戦争が始まると、当時イギリス連邦の一員として連合国軍側についていたカナダと日本は、敵国となった。


新保満の『カナダ移民排斥史』には、開戦により日系人のおかれた立場がどのようになったか、詳細に書かれている。ブリティッシュ・コロンビア州にあった51の日本語学校は即日閉鎖され、当時3紙あった日刊邦字新聞は発刊停止、集会は禁止され、日系漁業者の漁労は禁止、漁船は繋留され、長距離電話は使用禁止、灯火管制がしかれ、重要人物が逮捕された。さらに、12月16日にはカナダ政府は日本人、帰化人、カナダ生まれを問わず、「人種と民族」に基づいて日系人を「敵性人」とした。そして、沿岸部から100キロを「防衛地域」に指定し、国防上の理由をもとに、カメラとラジオを没収し、防衛地域での自動車の使用を禁止し、2月26日には防衛地域から総移動することを命じられた。


ちなみに、この防衛地域というのは、バンクーバーを含むブリティッシュ・コロンビア州の沿岸部のことで、そこには日系人の多くが居住していた。漁船や不動産などの日系人の財産は没収され、安い価格で売却され、その売却のための費用も日系人が負担させられた。


ところで、これまで当たり前のように「日系人」という言葉を使ってきたが、それは、どのような人たちなのだろうか。単純に考えれば祖父母や両親の誰かが日本にルーツを持つ人のことだが、カナダは出生地主義だから、カナダで産まれた人は親が日本人でもカナダ国籍を持つことになる。だから、カナダ生まれの2世や3世は「日系人」でもあるけど、れっきとした「カナダ人」でもあった。本来であれば、自国民を居住地から追い出したり、財産を奪ったり、権利を制限することはできないはずなのに、どうしてカナダ人の2世や3世までもが「日系人」とひとくくりにされてしまったのだろう。


当時の首相のマッケンジー・キングは、日系人が集住し、日本語と日本文化の中で暮らし、英語を覚えず、カナダ文化になじまないことを問題視していた。これは当時のカナダだけではなく、移民の多い地域ではしばしば問題になることだが、それを一概に否定してもいいものだろうか。言葉ができない、不動産を借りられない、仕事につくのを拒否される、といった差別をうけることの多い移民たちが集ってエスニックタウンを作るのは、自分たちの身を守る術でもあった。


開拓当初は鉄道敷設や道路建設などで肉体労働者が必要とされたが、インフラが整ってくると人数は制限されるようになった。さらに、1907年日露戦争で日本が勝ったことから、中国人や日本人が攻めてくるという黄禍論が起こり、反アジアの声は大きくなっていった。また、この時代には、植民地支配の口実として、白人が有色人種よりも優れているという人種論が流行していた。マッケンジー・キングもそういった思想の影響を受け、いつまでもカナダ社会に同化しない日系人を敵視し、戦争を口実にコミュニティをバラバラにし、カナダ社会に同化させようというねらいをもっていた。だからこそ、この収容と追い出しでは「カナダ人」という国籍よりも「日系人」という民族、人種が対象となったのだった。



日系人の仮設の収容所があったことを残す石碑

ヘイスティング・パークは、この日系人の移動に際して日系人が一時的に収容されていた場所だ。パウエル・ストリートから東へ5キロほど行ったところにあり、中には遊園地、家畜展示場、競馬場、池などがある。バンクーバーの人たちにとっては、憩いの場になっており、遠目にもローラーコースターやパラシュート型のアトラクションが見え、そこから子供たちの歓声が聞こえてくる。





ヘイスティング・パークの見学会があると聞き、参加してみることにした。参加者に白人の男性も混じっていたので話しかけてみると、パートナーが日系人だから、歴史を学びたくて来たと言っていた。彼の話によると、バンクーバーの歴史教育では、日系人の歴史について学ぶ機会はほぼないそうだ。そういえば、アリスも子供の頃受けた歴史教育の大半はイギリス史だったと言っていた。園内のあちこちに日系人の収容の歴史を残す案内板があるもののそれは目立たず、その出来事を知らなければ気づかずに素通りしてしまいそうだった。





日系センターが出している『KARIZUMAI 仮住まい』という日系人の収容所についてまとめた本がある。そこには、ヘイスティング・パークに多いときで3866人が収容され、1942年3月16日から9月30日の間に約8000人の日系人が通過していったとあった。



本文は英語、翻訳は筆者による。ヘイスティング・パークの部分を抜粋した。 「イーストバンクーバーにあるPNEは日系人が長期間の収容所に送られるまでの一時的な住居となった。大きなグラウンドは収容された乗り物が集められて格納され、病院とBCSC(ブリティッシュコロンビア州最高裁判所)の事務所が置かれた。家畜用の建物は女性と子供の住居、子どものダイニングルームと炊事場に使われた。馬のショーの建物は病院と荷物置き場に使われ、食肉加工場として使われていた建物はパン屋、ダイニングルーム、炊事場に使われた。会議場は男性用宿舎として使われ、ウィンターガーデンの建物は学校に使われた。教会のダイニングホールは洗濯場と靴修理と娯楽所に使われた


女性や子供が収容されていた建物は、元々は家畜用の展示場だったため、人が住むのには適していなかった。仮設の壁は薄く、水道設備はなく不衛生で、家畜のにおいだけでなく、排水溝をトイレ代わりにしたせいで悪臭がひどかったそうだ。日系2世のカナダ人作家ジョイ・コガワの『OBASAN(邦題は「失われた祖国」)』には、その環境がいかに過酷だったが綴られている。  


「そこでの混雑と騒音と混乱はもう手のつけようがない状態だと言っています。母親たちは神経をすり減らしてしまってぐったりしているし、赤ん坊は四六時中泣きやむことがない。父親は別れの挨拶もできずに妻子から引き裂かれ、二つの建物に豚のように詰めこまれてしまう。子供たちは教育を受けるあてもないまま学校から遠ざけられ、毎日毎日、何人もの人が収容所に送り込まれてくる。鉄条網を張りめぐらしたゲートや柵からは一歩も踏み出せず、男たちは建物の外へ出ることすら許されない。警察たちにまわりを厳重にガードされているのです」(175〜176ページ)






日本と違って戦災や地震で建物や町並みが破壊されることがなかったバンクーバーでは、町が建設され始めたころに建てられた150〜100年くらい前の建物もいまだに現役で使われており、家畜展示場もそのまま使用されている。その中に入ると、がらんどうの展示場は天井が高くて6月だというのに肌寒く、埃っぽかった。たとえ仮設のベッドがあったとしても、こんな場所で寝起きするなんて考えられなかった。



ふだんは物産展や家畜の展示会場に使われている

日系人はこの収容所を経て、さらに内陸部の収容所や労働キャンプ、砂糖大根畑に労働者として移動させられていったそうだ。収容から3年あまり経った1945年春、各収容所で戦争が終わったら日本に帰国するか、カナダに残りたいかという「忠誠心調査」が行なわれた。カナダに残りたいと答えた人のうち、ロッキー山脈よりも東側に再移住することを選んだ者だけが忠誠心があるとして、カナダに残ることができた。


ロッキー山脈より東というのは、白人が多く、気候は厳しく、バンクーバーとは全く気候も風土も違う。また、日系人の多くに漁業者が含まれていたが、海からは遠く離れており、漁はできない。出て行けと言っているも同然だった。これにより、4000人あまりが帰国を選んだ。その中には、カナダ生まれの2世や3世も含まれていた。かれらがバンクーバーに戻れるようになったのは、日系人に対する追い出し政策を進めていたマッケンジー・キングの政権が変わった1949年以降だった。敵国であり、実際に交戦があったアメリカでさえ、日系人は収容所に送られただけで、戦争が終わった後はもと居た場所に帰ることができたというのに。



公園内に作られた日本庭園


日系人の歴史を知るうちに、だんだんと自分が今ここにいられる根拠が、なんとも頼りないものに思えてきた。わたしの身分を保障するパスポートもビザも、ある日国から「無効」だと言われたら、かつての日系人たちのように出て行かなくてはいけなくなるかもしれない。もちろん、現代の人道主義の国カナダでそんな非現実的なことは起こりえないだろう。そんなことが起これば国際問題となり、内外の世論も黙ってはいないはずだ。


だけど、もし何かの拍子でそんなことが起こったとしたら? ここでできた人間関係も仕事も置いて、また日本で一からはじめなければならなくなる。わたしたちは大人になってから来たし、まだカナダに来て一年目だからどうにかなるだろう。けれど、これがもし、子供の頃からカナダにいる人だったら? カナダでしか使えない資格を取って、長年仕事してきた人なら? 会社や商売で成功して、カナダで地位を築き上げた人なら? カナダ人と結婚していたら? 子供が産まれていたら? その子が英語しか話せなかったら? 日本にもう帰る家も働くところもなくなっていたら? それはあながち非現実的な妄想とは言えないのではないか。ひとたび国際関係が変わり、日本排斥の世論が起これば繰り返されるかもしれないことなのだ。


そして次、排斥が起こるとしたらこのようにあからさまにではなく、もっとマイルドな形で行なわれるだろう。例えば語学の試験を課して成績の低い人をいられなくするとか、カナダでの学歴を課し条件を満たせない人を帰らせるとか、収入の下限を決めてそれより収入のない人を追い出すとか、ビザの更新時に高額のお金を収めさせ、払えない人は更新できなくするとか。そして無理だと言ったり、反抗したり、不満の声を上げたりする人は白い目で見られ、このように言われるだろう。「嫌なら出て行け、帰れ」と。


カナダに行く前、鶴橋の駅前で旭日旗を掲げて「在日は出て行け」「国へ帰れ」と、拡声器でがなる人たちを見たことがあった。「人種差別」なんて過去の亡霊ではないか。そんなものがまだ現代にあるなんて。見てはいけないものを見たようで目をそらした。


しかし、わたしがそういう態度を取れたのは、わたしは日本人で、何もしなくても日本にいられるマジョリティだからだった。わたしは国を追い出されるかもしれないと恐れることもなければ、マジョリティから向けられる憎悪に怯える必要もなかった。先祖が日本人。日本語が話せる。日本の学校を出ている。選挙権がある。それらはわたしにとって当たり前のことで、持っていて当たり前のものだった。それらは勝ち得たものでも、努力して得たものでも、のどから手が出るほど欲しいものでもなかった。カナダで自分が外国人という立場になって始めて、自分のそのような「特権」に気づいた。あのとき目をそらしただけの自分は、「特権」ゆえに人種差別を「人ごと」としてしか捉えていなかった。


ヘイトスピーチに対する法律ができたことで、あのようなあからさまな排外的なデモを目にする機会は減った。一方で、帰ってきてからメディアや日常であけすけな会話を見聞きすることが増えたような気がする。人種差別が、路上で一部の人がやっていた極端な行為から、そのハードルが下がって社会全体に染み出してカジュアルな行為になっているように見える。 


今でははっきりとこう思う。人種差別とは過去の亡霊ではなく、何度でもよみがえるゾンビのようなものだ。それは権力を持っている側によって、社会の小さな不満から目をそらすために使われる。マジョリティは優越感を感じるために、故意にあるいは、知らず知らずのうちに加担する。自分が「出て行け、国へ帰れ」なんて言わないと信じていても、時代の熱狂や排外主義の空気に飲み込まれ、誰かに向かって石を投げることになるかもしれない。

自分はどうだろうか。あるいは、日本は。かつてのカナダと同じ轍を踏もうとしていないだろうか。



参考文献


『日系カナダ人の追放』(鹿毛達雄、1998年、明石書店)

『移民国家アメリカの歴史』(貴堂嘉之、2018年、岩波新書) 『失われた祖国』(ジョイ・コガワ、長岡沙里訳、1998年、中公文庫)

『カナダ移民排斥史』(新保満、1985年、未来社)

『黄禍物語』(橋川文三、2000年、岩波現代文庫) 『KARIZUMAI 仮住まい』(2013、Nikkei national museum & cultural centre)



プロフィール


太田明日香(おおた・あすか) 編集者、ライター。1982年、兵庫県淡路島出身。著書『愛と家事』(創元社)。連載に『仕事文脈』「35歳からのハローワーク」。現在、創元社より企画・編集した「国際化の時代に生きるためのQ&A」シリーズが販売中。



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