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執筆者の写真Saudade Books

Hello folks #11 海を越えて #2 パウエル・ストリート(太田明日香)


2年間のカナダ滞在経験から「外国で暮らすこと」や「外国人になること」を考える詩とエッセイの連載です。



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海を越えて 


わたしたちを分かつもの

それはただの海だった


わたしたちだった人たちを

だれもが思い出していた


海を越えたその先で

同じ言葉と同じ顔

思い出すのは同じ海


わたしたちを分かつもの

金、生活、もう何年も


わたしたちだった人たちを

稼ぎ、暮らす毎日が

知らない人に変えてゆく


あの海はなんども越えた

だけど、同じ海はもう見ない


わたしたちを分かつもの

国、戦争、パスポート


わたしたちだったころを

みな忘れ覚えていない

そこにいたことも


わたしたちのあの海は

鮭を追って

越えた海


わたしたち、だったころ

わたしたちはそこにいた



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前回ではコミュニティセンターで出会ったアリスという女性の半生と、和歌山県出身者が多いリッチモンド市のスティーブストンの漁業者の歴史を中心に日系人の歴史を書いた。しかし、日系人の最大のコミュニティがあったのは、バンクーバーのパウエル・ストリートだ。



パウエル・ストリートを西から東に写したところ。右手側にオッペンハイマー・パークがある。


戦前にバンクーバーで活躍した野球チーム「Asahi」を描いた映画『バンクーバーの朝日』の原作となった同名小説には、パウエル・ストリートのことがこのように記されている。


カナダ西海岸の都市・バンクーバーには、バラード湾を挟んで南北2つに分かれている。その南地区、バラード湾南岸近くを、全長3キロメートルほどのパウエル・ストリートが東西に走っている。


日本人街は、南北約400メートル(東ヘイスティングス通りとレイルウェイ通りの間)、東西約500メートル(メイン通りとプリンセス通りの間)の小さな街だった。


メインストリートとなるパウエル街の両側には、3階建ての建物がずらっと軒を連ねている。たいていは1階が店舗、2階と3階は宿屋や貸し部屋になっていて、そのほとんどを日系人が切り盛りしていた。


パウエル・ストリートでは豆腐屋、仕立て屋、散髪屋、風呂屋と、ほぼ日本同様の暮らしができるように店がそろっていて、看板も、使われる言葉も日本語。カナダでも日本と同様に生活できたそうだ。


では、現在のパウエル・ストリートはどうなっているのだろうか。カナダにおける日系人に関する博物館「日系センター」が主催するパウエル・ストリートのウォーキングツアーに参加してみることにした。


6月のある晴れた日の午前中、パウエル・ストリートに向かうためにバスに乗った。繁華街のダウンタウンを過ぎ、ダウンタウンの切れ目のキャロール・ストリートを越えた辺りから、観光客向けのこぎれいなブティック、土産物屋、カフェなどはなくなり、ドラッグストアや食料品店などに変わる。店頭や窓ガラスは掃除が行き届いてないせいかどことなくくすんで見えて、正面に盗難防止の鉄格子をつけている店も多い。観光客の姿は見えなくなり、一方で野外で飲酒禁止のはずのカナダで明らかに酔っているような人もいて、あまり治安のよくない雰囲気を感じる。このまま東に行けば、北米一のドラッグ地帯と言われている、イースト・ヘイスティング地区の中心部に至る。


パウエル・ストリートは、イースト・ヘイスティング・ストリートから北に2ブロック歩いたところにある。待ち合わせ場所に着くと、10人ほどの男女がいた。現地の人だけでなく、日系人街に興味を持ったという現地に住んでいる日本人の姿もあった。案内してくれたのは日系センターで働いているという男性で、聞けば中華系にもルーツがあるという。日系センターで働いているからといって必ずしも日本だけにルーツを持っている人が働いているわけではないことは考えれば当たり前のことだけど、少し驚きを感じた。


案内は英語で、パウエル・ストリートの中心部を歩きながら、現在の場所にかつて何があったのかを、当時の写真パネルを見せながら説明してくれるものだった。正直、かなり早口でわたしの英語力では全部を正確に理解することはできなかった。あとから購入した、日系センターで発行している『パウエル街歴史散歩』という小冊子の中の記述を元に案内しているようだったので、以下、『パウエル街歴史散歩』を参考に日系人コミュニティがどのように発展していったのか見ていこう。



この本は日系カナダ人の移動と収容の50周年を記念するホームカミング会議の機会に刊行された。本書を書いたオードリー小林博士はマギル大学の地理学教授で、日本からのカナダ移住に関する研究が専門。一般の人のために、厖大な日系人資料を元にこの本を書いた。(日本語で書かれた前がきから要約、本文は英語)


1860年代ごろから製材所ができて産業が起こり、1886年にはバンクーバー市が作られ、インフラ整備が進められていく。当時このエリアは市の中心部で、住んでいたのは初期のバンクーバーに住んでいたビジネスエリートだった。ところが、同年の大火でこの地域は焼けてしまった。1880〜1890年代にかけての復興の過程で、市の中心は西側のウエスト・バンクーバーへ移っていくとともに、初期の住民たちは西側に引っ越していった。


パウエル・ストリートの近くには製材所があったため働く場所に不自由しなく、市の中心が移って手頃な値段で住居が借りられるようになったので、1890年代以降、増加してきた日本からの移民は、パウエル・ストリート周辺に住むようになった。初期の移民は単身男性による出稼ぎ目的やアメリカに移民するための中継地点としてカナダを選んでやって来ることが多かった。


当時200人以上の日本人が働いていたヘイスティング製材所では仕事は日本語で行なわれていた。現地の有力な日本人が労働者をとりまとめ、働き口を紹介したり、条件を交渉したりしてくれたので、着のみ着のままで到着しても、英語ができなくても、仕事に就くことができた。



1888年頃のヘイスティング製材所の写真


漁業者に和歌山出身者が多かったのに比べ、パウエル・ストリートを拠点にして製材所や鉱山、鉄道敷設などの肉体労働に従事したのは広島県、滋賀県、福岡県、鹿児島県出身者だった。次第にパウエル・ストリートには、このような労働者のための下宿屋や食堂、風呂屋、床屋、食料品店などができていった。下宿は木造で、1部屋に10〜12人も詰め込まれた。その中でも商才のあるものは移民業者となって新しく来た移民に仕事を斡旋したり、小さい

商店のような移民向けのビジネスや金融業を始めたりするようになった。




パウエル・ストリートの西側。東から西に向けて撮った写真。上が2015年、下が戦前のもの。


やがて親族を呼び寄せるビザを使って、労働者の子供(主に男児)も呼び寄せられてやって来るようになる。彼らは、昼間は親の仕事を手伝い、夜は地元の英語学校に通った。また、順次女性も増えていった。独身男性たちは一時帰国して日本から女性を妻として連れて帰ってきたり、前回でも取り上げた「写真婚」で妻となった女性たちが日本からやってきたりした。女性たちの多くは10代で、家族の商売を手伝ったり、市内の衣服の工場に低賃金で働きに行ったりした。女性たちの中には内陸部の林業や農場にやられ、そこで洗濯や料理といった低賃金重労働に就かされた者もいた。やがてカナダ生まれの2世の子供たちが生まれると、子供たちは、昼間はカナダの学校に通い、夜は日本語学校で日本語を学んだ。


1900年〜1910年代には、最初建てられたような単身者向けの下宿屋は、家族が増えるにしたがって家族向けに改造され、古い住人は近くに引っ越し、新しく来た住人に部屋を貸すビジネスを始めるようになった。


1920〜30年代にはパウエル・ストリートは経済的に急速に成長し、1929年には世界恐慌が起こったにもかかわらず、日本人街は繁栄を続けた。しかし、その繁栄は1941年の真珠湾攻撃によって潰えることとなった。日本人、およびカナダ国籍を持つ日系人は敵性国民とされ、財産を没収され、収容所や労働キャンプに送られた。



雑貨屋を営んでいたMaikawa Building。今も同じ位置に建ち、外観も同じ。


実際にパウエル・ストリートの成り立ちを知り、自分の足で歩いてみて、村に一家族しか日系人がいなかったというアリスの子供時代とのちがいに驚いた。アリスの1世代前までは、50年近くにわたってたしかに「日系コミュニティ」と呼ばれるものがあり、そこで日本と同じような暮らしをしていたのだ。 


戦争や災害でなくなった町とのちがいは、人だけが追い出されたことだ。建物は政府に没収されて、格安で他の人に売られていった。だから建物や町並みの多くはほとんどそのまま残っている。


だけど、どれだけの人が鉄格子越しの玄関口に見える「MORIMOTO」や「KOMURA」のモザイクタイル、壁に書かれた「旅館」の文字などの日本人街の痕跡に気づくだろうか。3階建ての木造家屋を造ったのが誰だったか、追い出された日系人たちがその後どうなったかまで思いを馳せるだろうか。痕跡はそこかしこにあるのに、それは誰にも気に止められないまま、朽ちていこうとしているようだった。



タイルに残された、かつて住んでいた「MORIMOTO」の名前。


日本人大工が作った家。


ツアーに参加する前はぼんやりと、両親や親のどちらかが日本人の血を引いていたら、自動的に日系人としてのアイデンティティも、日本語や日本人らしいふるまいや習慣も持っているものだと思っていた。だけど、それは浅はかな考えだった。そういったものは同じような暮らしを営む人たちのコミュニティがあり、そこでの人とのかかわりや定期的に行なわれる行事を通じて形作られてゆくもので、自動的に獲得できるものではない。そのコミュニティのよりどころである町がなくなれば、そこで培われるものも失われてしまうのだ。この日系人の追い出しの、いかに残酷なことだったか。



参考文献


『パウエル街歴史散歩』(Audery Kobayashi、1992、NRC Publishing)

『バンクーバー朝日』(テッド・Y・フルモト、2014、文芸社文庫)


※パウエル・ストリートの写真は2015年撮影



プロフィール


太田明日香(おおた・あすか) 編集者、ライター。1982年、兵庫県淡路島出身。著書『愛と家事』(創元社)。連載に『仕事文脈』「35歳からのハローワーク」。現在、創元社より企画・編集した「国際化の時代に生きるためのQ&A」シリーズが販売中。


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