「アジアの群島詩人」を紹介する特集。 台湾ブヌン族の詩人サリランの作品の翻訳者、朱恵足の論考です。
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1919年の年末、柳田国男は貴族院書記官長を辞任し、沖縄へ旅立った。鹿児島から乗船し、那覇に到着した後、沖縄本島各地をまわった。その後、離島の宮古島、八重山諸島を訪ね、ふたたび那霸に戻った。帰路、奄美大島の名瀬に立ち寄ってから、鹿児島に戻った。この2か月余りの旅を記録したのが、『海南小記』(1925)である。
日本思想史の研究者・村井紀の『南島イデオロギーの発生』(1992 / 2004)の分析によれば、『海南小記』は柳田民俗学における大きな「転向」のポイントとなった書物である——以降、柳田は北の「山人」(日本古代異民族、アイヌ民族、被差別部落民)の世界に見られる植民地と異民族の問題から目を背け、「南島」(沖縄、奄美)に「日本」の民族的な起源を探求するようになった。彼は、沖縄、奄美の前近代的な風土と文化に、日本が急速な近代化や西洋化のプロセスで失った「伝統」を見出し、それを通じて同質的な「日本(人)」というイメージを擬制的に構築したのである。
やがて「一国民俗学」を確立する柳田のそのような視線や立場、イデオロギーの転換は、1917年3月から4月にかけての台湾視察旅行をめぐる語りに、すでにその前兆が現れていたと言える。彼が『遠野物語』の「山神山人」(先住民、異民族)のモデルとしてみなす台湾の「高砂族」は、牧歌的な先住民族として描かれ、圧迫的な植民地統治に対して「山人」がおこした叛乱については、一言も書き残さなかった。つまり、柳田民俗学における「南島」へのオリエンタリズム的言説は、日本帝国の領土拡張と異民族支配の政治過程を隠ぺいするものだったのである。
2018年に台湾文学賞を受賞した、ブヌン族の詩人サリラン [1] の詩「別れたあの時から——南十字座の下にある南島語」は、「台湾山人」として「南島」の歴史と記憶を想像的に航海しながら、百年前に柳田が目を背けた植民地や異民族の問題を浮き彫りにする作品である。
サリランは1981年、花蓮県卓渓郷中平集落に生まれた。2000年、元智大学中国文学専攻学部に在学中、「ディナのことば(笛娜的話)」という詩作品で先住民文学賞を受賞し、デビューした。ブヌン族の言語のローマ字表記を、ローマ字聖書をもとに独学で習得した後、中国語と母語の両言語で創作するようになった。2003年に東華大学民族発展研究科の大学院に進学し、ブヌン族の祖先が集落をひらいたラクラク渓流域の地理学、水文学、歴史や文化をテーマにして修士論文を完成した。[2] 『ホームランド・集落・人(祖居地・部落・人)』というエッセー集は、彼が大学時代、祖先がかつて暮らした家屋や集落のあった場所を訪ね、部族が中央山脈から東海岸に移り住んだ道のりを辿り直す経験を記録した内容である。
大学卒業後、サリランは先住民族の村に戻り、「伝統領域」の山林の巡察員、山小屋の管理人、登山ガイドや人足の仕事に携わりながら、「一本の栗(一串小米)」という民族語による独立出版工房を創立し、ブヌンのことばで古老たちの語りを記録し、書籍を出版した。最新刊『ヘッドバンドで山々を背負う(用頭帯背起一座座山)』(2019年)は、ブヌン族の人々が伝統領域の山林で仕事する様子を紹介しながら、台湾先住民族の苦難に満ちた歴史を、日本の植民地統治時代も含めて辿るノンフィクション作品である。
台湾の中央山脈にルーツを持つ詩人であるサリランは、どのような道筋で「南島」へ思いを馳せるようになったのか。
彼は嘉明湖という隕石湖の山林巡察員として仕事をしているが、晴れた日には、尾根から台湾東部の離島・緑島をよく眺めるという。ある日、南東の海上に浮ぶ島・蘭嶼を旅し、逆に台湾の山脈を見る経験をした。蘭嶼のタオ族の友人と共に家屋の屋上に寝転んで一夜を明かしたが、朝、目が覚めたら、目の前に現われた台湾本島の山脈の影に驚いた。友人が部族の年寄りから聞いた口伝えでは、蘭嶼まで航海した祖先はその巨大な山脈を見て、そこが世界の終った場所だと考え、蘭嶼に定住したとのこと。台湾の山から太平洋にある離島を見たり、離島から台湾の山を見たりする生活経験に加え、漢民族の近代資本主義が台湾先住民の住む土地にもたらした開発や環境問題への関心も、彼の詩作における山林と海洋のイメージの対話を生み出した。『集落の灯火』(2013)という詩集は、原住民集落の生活や文化から書き始め、台湾各地の先住民族が直面する環境問題を取り上げる——台東の美麗湾リゾート、蘭嶼の使用済み核燃料、花蓮のコンクリート工場、自然災害に見舞われる台湾の山地。
ついで、世界の先住民族(モンゴル、チベット)との交流を描く一連の詩作品は、石垣島への旅から始まる。「フィリピンのバタン、蘭嶼から黒潮がもたらした飛び魚の翼に乗って/飛び立つ」(「石垣島へ飛び立つ(飛向石垣島)」)。「琉球の赤瓦の下で蘭嶼の地下屋をめぐる思い出を聞く(在琉球紅瓦下聴蘭嶼地下屋的回憶)」という詩は、八重山文化研究会会長の石垣繁氏がかつて蘭嶼でフィールドワークをした時の話を島で聞いた経験に基づいて書かれたものである。沖縄の伝統家屋の赤瓦やシーサーの像を蘭嶼の地下屋の景観に交差させ、それらを海風に襲われる厳しい自然環境の中で生まれた島嶼民の知恵のかたちとして意味付ける。
2018年に台湾文学賞を受賞した「別れたあの時から——南十字座の下にある南島語」は、中国語による詩「ディナのことば」から出発したサリランが、各地の南島民族との連帯を求めて、より広大な視野を持った群島的な世界観に想像力を開いていくプロセスを示している。この作品は、詩人が大学で学んだ言語学的な音声学や独学で習得した南島語の知識を駆使し、台湾から世界各地に離散した南島民族の歴史的・文化的境遇を表現する。[3] 冒頭の「別離」のセクションは、mata(目)、ima(手)など南島語の同源語や bet’ay(櫂)、paraqu(舟)、qan’ud(波に流される)などの推測古南島語を通して、南島民族が台湾から旅立った原初の時に読者を立ち戻らせる。
「遠く離れたあなた」のセクションは、色衣陶、アウトリガー、豊田玉などの物質文化の伝播の痕跡をたどることで、南島民族がジャワ島、ニュージーランドなどの島にそれぞれの土地を探し求めてきた歴史を描き出す。
それに続く「留まるわたし」のセクションでは、台湾に留まるブヌン族の人々が山に登り、仲間たちが旅立っていった航跡を眺める場面が描かれる。ブヌンの言葉で「ludun(山)」の接辞変化のリズムに乗って、祖先たちが山々を越えて東海岸の花蓮に移住したプロセスが、聴覚的に表現される。
「同じ苦難を」というセクションは、世界各地の島々に定住した南島民族が、帝国主義や国民国家による人種差別、植民地支配に虐げられてきた事実を浮き彫りにする。南島民族が航海の方角を見定めるのに参照する太陽、月や星が、アメリカの星条旗、中華民国(台湾)の青天白日満地紅旗の 12 本の光芒、日本の日の丸、ニュージーランドの南十字座など、少数民族を支配する国家権力のシンボルに重ねられる。「你好、Bonjour、こんにちは」など植民者の言語が南島民族のことばに取り入れたことも、植民地的な支配関係がもたらした衝撃を語る。「ビ・キ・ニという破裂音が発せられた」という詩句は、言語学の「破裂音」にかけながら、アメリカが南のビギニ環礁で水爆試験を繰り返し行った暴力を批判する。
サリランの詩においては、帝国主義や国民国家による支配の下で、南島民族がことば、文化や生活の基盤を奪われてきた暴力の歴史が提喩的に表現される。そのような批判的な視点は、「別れたあの時から」の結びの「凝視」というセクションに繋がっていく。世界の南島民族が、共通する起源や歴史経験に基づいて、詩的な想像力や民族語を媒介に、お互いに連帯するように呼びかける未来志向的な内容である。
百年前に柳田国男は、日本に対する西洋の人種差別へのコンプレックスから、「外地」に「他者」としての先住民族を発見することで、「日本(人)」という近代国民国家のアイデンティティを言説的に構築した一方、「南島」に残される日本の「原郷」に対するノスタルジーを語った。サリランの詩が紡ぎだすもうひとつ別の「南島」のヴィジョンが批判するのは、柳田民俗学からはじまり現在に続く日本(および欧米)の(新)帝国主義のまなざしだけではない。さまざまな時代に中国大陸から台湾に移住した漢民族もまた、先住民族を差別し、圧迫してきた植民者であることに変わりはない。
90年代に興った台湾ナショナリズムは、中国からの軍事的・政治的な脅威に対抗するために、先住民の「南島」的な血縁や文化を打ち出したり、日本植民地時代の歴史遺産を、台湾アイデンティティのベースとして利用したりしてきた。日本の右翼・軍国主義の主張と声を合わせる独立派までいる。
かつて「南十字座」のイメージは、日本帝国の「南進」の基地・植民地台湾の象徴として、校歌や部隊の隊歌にしばしば登場した。大東亜戦争の時代に入ると、それはさまざまな創作や芸術にも取り入れられ、軍国主義を謳歌するシンボルとして確立された。漢民族、先住民を含め、台湾の被植民者は、この「南十字星」の下で軍事動員され、日本帝国のアジア侵略に加担したのである。
サリランの詩を読むことで「南島」を旅する経験は、帝国主義的なノスタルジーとは異なる道筋をたどりながら、山と海、過去と現在と未来、声の文化と文字の文化、遠く離れた島と島が対話する群島的なヴィジョンへと私たちを誘うだろう。
[1] Salizan‧Takisvilainan‧Islituan(沙力浪)
[2] 魏貽君「沙力浪的文学童年、笛娜的話語」、サリラン『部落的燈火 Asang tu singqal』2013年。
[3] 1990年代に、台湾や海外の学者たちが、太平洋カジノキという木のサンプル分析やさつま芋の伝播など様々な領域の研究を通して、南島語系の民族たちが台湾を起源とする仮説を提出した。
プロフィール
朱恵足 一九七三年台湾台東生まれ。 台湾中興大学教授。専門は台湾文学、沖縄文学。日本語の論文に「世界の始まり / 終わりとしての島嶼——呂則之『荒地』と崎山多美『ゆらてぃく ゆりてぃく』」など。
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